「 臨床医として、男性医師からのメッセージ 」東北大学大学院医学系研究科 内科病態学講座 腎・高血圧・内分泌学分野 准教授 清元 秀泰
(日本腎臓学会 男女共同参画委員会・委員、卒前卒後教育委員会・委員)

はじめに

 黒瀬顕先生、弘前大学医学部の病理診断学講座のご開講、おめでとうございます。そして、整形外科医を妻に持つ黒瀬顕教授から、腎臓学会で男女共同参画の仕事している私に、女医へのエール、つまり育児や仕事に対するメッセージを求められました。さてはて、どんなことを寄稿しようかとしばらく悩んでいました。というのも、私と黒瀬教授は四国の香川医科大学で同期、そしてSG(スモール・グループ)でも一緒。実際、30年前の入学以来(いや、入学するちょっと前から)の悪友で、今更、堅苦しいことばかり言っても、底が知れていることはお互い様。しかし、栄えある病理診断学の教授である黒瀬先生と同様、ちゃらちゃらしていた私も彼と同様に社会的に守るべきものも持つようになった中堅世代。友人といえども衆人注目のサイトになるかもしれないので、あまりチャラけたことも書けない。困ったものだ、と苦悩するうちにもう3ヶ月以上が経ってしまった。
 ここは、旧友の門出のホームページであり一念発起して、自分の恥をさらすようなことだけれども、後進の人たちのためにも恥ずかしながらも自分と私の家族の失敗した経験も踏まえ、これから研修や研究をしていこうとする若い医師(あえて女医ではない)に対して、しっかりとしたワークライフバランスを考えた人生設計とエールを送ること主眼に、自分なりの男女共同参画事業への思いを書きたいと思う。

香川大学時代からアメリカ留学

 私と家内の出会いは20年前にさかのぼる。私が大学院時代、薬理学のリサーチ・アシスタントをしていた時にさかのぼる。後の私の妻になった人は、よく研究室に来ていた学生だった。当時、22歳の丸顔でぽっちゃりとした彼女は、美人というより妹のようなタイプの医学生であった(実際には私は末っ子で妹はいない)。なぜだか意気投合して、若気の至りというか、あまり思慮分別のない2人は出会いから2〜3回デートして、「あっ」という間(3ヶ月)に結納。そして半年後、分不相応なバブル時代の盛大な結婚式を行い、彼女は医学生のまま清元姓を名乗ることになった。
 結婚の翌年、彼女は卒業。彼女は研修も何もしないまま、私と共にテキサス大学に留学した。私は当時、ポスドクで給料は月額832ドル(約8万円弱)。アパート代を払ったら、何も残らないようなぎりぎりの生活で、すぐに妊娠。何とか、実家の援助で出産するも、生理もないまま、また妊娠。結果として、13か月離れた一姫二太郎のアメリカ国籍を持つ子宝に恵まれた。アメリカ人の産婦人科ペイン医師にはあきれ顔で「貧乏暇なし、生理なし」と、半分冗談のようなお叱りも受けた(女性は妊娠後、数回の生理を経験する事で子宮復古が完成するので、生理を経ない立て続けの妊娠は胞状奇胎のリスクである)。
 そして、残念ながらペイン医師の予言通り、私たちのアメリカ生活は2人の子育てに追われる彼女と、私のレジデント給料での貧乏暮らしの中では、大した楽しい思い出も作ることもできず過ぎて行った。更にこの日々の中で、彼女の心の中には他の同級生とどんどん拡大していく自分のキャリアに対する不安が焦燥感となり、幼い子供を連れて実家のある香川に帰るという行動へと繋がっていった。

香川大学時代の苦悩

 研修を終えた同級生の女医たちがばりばり働く話を聞くと、今では考えられない早婚で二児の母である家内は居ても立ってもいれなかった。アメリカから香川に帰ってから、家内は生後9ヶ月と2歳の子供を預けて、大学院の学生を再開した。そして、私のアメリカでの最後の1年(3年目)は結局、単身赴任として継続した。
 家内が大学院生として研究生活を始めた理由は、研究がしたかったわけでない。当時は院内託児所や病児保育もなく、当直や呼び出しがある臨床医は無理だろうと判断してのことであった。研究が好きで基礎医学の研究室にいたわけではないし、医学博士が欲しくて大学院に行ったわけでもない。しかし、自分の失われたキャリアを埋めるためには「医学博士」というブランドも重要である。もし、今の時代ならまた別の道を選んだであろうが、その時は最も妥当な選択であった。
 学位を取得した家内は、それでも臨床医としての勉強がしたいと、保育園に通う子供を預けて少し融通がきく一般病院の常勤医となった。このころ、私は大学病院の循環器・腎臓・脳卒中内科の医局長もしており、公私ともども信じられない忙しさと精神的ストレスに苦しんでいた。それ以上に、家内は仕事と育児という両面で苦しんでいた。家内のキャリアと私のキャリアに挟まれ子供の養育問題は常に二人の紛争のもとであり、これは後にお受験という教育問題へと発展していく。いずれにせよ、我々夫婦は常にこの問題から逃れられずに、最終的には常にどちらかが別居状態という形で今まで20年目を迎えてしまった。最終的に家内は大阪、兵庫で臨床医として活動するようになり、長女が小学生になる年、子供たちは家内のいる兵庫県に転居し、私はとうとう香川で一人ぼっちになってしまった。結婚して20年で、まともに一緒に暮したのが3年未満という夫婦が世の中にはそんなにいるとも思えない。ばらばら家族と自嘲してしまうが、親は無くとも子は育つ、とはよく言ったものである。今、高校3年生と2年生の二人の子供たちが、特にぐれることもなく素直で責任感ある大人になりつつあることは本当にありがたい。これは家内とその周りの人たちの支えがあったからこそのことで、更に家事や仕事を一所懸命する家内の背中を子供ながらに見詰めてきたからだと思う。家内の両親をはじめ、近所の人や家政婦さんなど家内と子供たちの成長を暖かく支えてくれた人々には感謝してもしきれない。しかし、本当にこれでいいのだろうか、ということが私の心の中に芽生えたのは、小学校に就学する子供たちを兵庫県に送っていった帰りの車の中だった。

アリの社会から学ぶ人間社会の不条理

 少し、話はそれるが、私は子供のころから進化論が大好きだった。チャールズ・ダーウィン卿の「種の起源」や今西錦司先生の棲み分け進化論は、自分の妄想癖と相まって今も私の生物学の基本概念を形成している。更に、高校生の時に買ったドゥーガル・ディクソンの「アフターマン」というへんてこな図譜は、今でも時々読んでニタニタしている。実際の臨床現場でも進化論的な観点から高血圧や糖尿病の成因を妄想する。特に転勤してきてからは、食塩感受性高血圧の遺伝子には非常に興味が出てきた。香川大学時代には細胞培養実験をしながら、インキュベーション時間を使っていつも読んでいたのがリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」であった。
 ドーキンスはアリやハチの生態を研究するなかで、働きアリはなぜ自分の子供を産まずに女王アリの子供である卵を大事に世話するのかという命題を論理的に説明してくれた。しかし、私が興味を持ったのは彼がアリゾナで観察した働きアリの話である。実は、働きアリというものの、実態は2割しか働いていないというくだりである。
 確かに私も子供のころ、炎天下でアリの行列を飽きもせず何時間も見つめたことを思い出した。働きアリの2割しか働かないが、全体の6割に相当する働きアリはアリの行列を作る要員である。彼ら(彼女ら)は「巣からちょっと行った横町の角でバッタが死んでいるらしいで…」、というような噂話を聞きつけ、「じゃ、ちょっと見に行ってみよう…」みたいな感じで、ただの物見遊山的な行列を作っているだけなそうだ。だから、バッタのところまで行っても、「へ〜、大きなバッタだね」と言っては、特に仕事をするわけでもなくさっさと巣に引き返す。実際にその遺骸を引きちぎり、また噛み砕いて巣の仲間のいる巣に持って帰ろうとするような峻峭な本当の働きアリはたった2割しかいないというのである。
 しかしながら、この物見遊山的な行列をする6割のアリもまた重要で、これらがいないと本当に一所懸命に働くアリは方向を見失い、前後不覚に陥る。つまり、一心不乱に物を運ぶ働きアリは行列がないと巣への帰り道を失ってしまうのである。ただなんとなく行列に参加していることも社会活動上には重要で、一所懸命に働く2割の働きアリとなんとなくモラトリアムな仕事をしている6割の働きアリが見かけ上のアリの社会を支えている。では、残りの2割はいったいどこで何をしているのか。
 この残りの2割のアリは、最初から「働かない」働きアリである。本人たちの率直な意見は「昼間、炎天下で働けるかよ!」ということです。無産市民の如く、巣の奥底でただただ食料が与えられるのを待っているアリなのです。同様の事は比率こそ違え日本のアリにも当てはまるそうです。しかも、「働かないアリ」の比率は思ったよりすごいことが分かってきました。
 このことは「地上では忙しそうにしているアリも、集団の7割は巣で休んでいる。」と、日本の進化論学者である長谷川英裕(北海道大学准教授)が最近発表した著書に、ショッキングにもそう書いてありました。しかし、このアリの社会の理屈こそが、我々人間の社会にも重要なことなのです。この「働かないアリ」の存在は昔から知られていたわけですが、「働くアリ」だけを集めても必ず出てくる。そして、逆に「働かないアリ」だけを集めても、同じ比率で「働くアリ」が出てくる。なぜこんな効率の悪いシステムが出てきたのか、と不思議に思うのですが、自然の力は意味がないことを継続させてくれるほど寛容ではない。ずばり、「働かないアリ」がいる集団のほうが、より生き長らえることが示されているからなのです。
 一斉に働いて一斉に疲れると、卵を守るなど常に必要とされる仕事の担い手がいなくなる。「働かないアリ」はいわばバックアップ要員なのである。これを人間社会にあてはめるなら、働かない者がいる集団のほうが組織は健全に長続きする。疲れるから皆で一斉に働かないほうがいい、という変な理論が成り立ってしまうのです。アリも人間の社会も個体が集まって全体の利益を作るという点ではシンプルに似ています。各個体のワークライフバランスを考えて、同時に疲弊しない組織作りがこれからの日本の新しいシステムになればと思います。

働く人と働かない人の違いはベクトルの方向が違うだけ

 アリの話では「働かないアリ」と書きましたが、働かないのではなく休んでいるだけです。しかも、それは怠けているのではなく、巣の中でする別の仕事(役割)があるのかもしれません。観察者からすれば、物を運ぶ、敵と戦かう、など目に見えることが働いているということと認識されて、巣にいる2割は働いていないという錯覚をしているだけなのかもしれません。疲れないように長い目で見ればシフト交代制で働いているのかもしれません。別の仕事は地味で地道な作業であって、ある方向から見ると動いていない点でも、観察者の視線を帰れば、バッタの足を運んでいるアリのベクトルと同等、もしくはもっと大きな貢献を社会にしているかもしれません。
 そういう点で、男女共同参画を見てみると考えが変わってきます。社会のために、次世代のために誰かが子供に無償の愛を与えなければ誰も成長はしません。これは、教育・研究・臨床という3つの業務をこなさなければならない大学病院では、次世代の研究者や研修医の教育と同じことです。ところが、実際の大学ではベクトルをインパクト・ファクターという尺度で評価できる研究が重視され、もっとも評価しにくい教育が軽んじられる傾向があります。また、臨床では主治医は患者のためにずっとそばにいなければならないというような時間を対価に入れない不合理な人物評価も見受けられます。
 長い目で見れば子育てという重要な仕事をしながら、たとえば病院でなくてもできる仕事を振り分けて担当してもらうとか、少なくとも子育ての合間にはネットを利用した知識の涵養だけでもしておくことで、いつでも女性医師は社会への復帰が可能になるはずです。そして、世の中の男どもが疲弊して働けなくなってきた時、その時こそが働きアリに戻る瞬間なのです。子育てにひと段落した女性医師が立ち上がって組織を運営し、後進を育成し、斬新なアイデアで研究するなど、どのような状況でも、知識を涵養してパワーアップした粘り強い女性医師が、今、もっとも社会から必要とされ、そして実は長い目で見れば個人的にも最も充実した人生を得ることができるのかもしれません。少なくとも20年、家族と離れ離れになった自分を振り返って、そうあってほしいと願わずには居られません。

障害者、高齢者、女性に優しい社会は誰にでも優しい社会

 考えてみれば、だれしもが子供だったし、早い遅いはあってもほとんどの人が介護が必要なぐらい老いることは避けることができません。社会に働きアリのベクトルでは働けないヒトが増えても、何かしらの貢献ができるのが成熟した社会というものであり、そういう意味でバリアフリーとかジェンダーフリーとかという言葉があるのだと思います。
 たとえば、「うちは被爆量が多いから来なくていいよ」というカテ専門の循環医。「うちは催奇性があるホルマリンや有機溶媒をたくさん使っているから、妊婦さんになる人は来ないほうがいいよ」と、いう病理医。最近はこういう事例は非常に減ってきましたが、よく考えてみると、そのような作業環境だからこそ、低暴露環境に改善し少しでもリスクを減らすことに、女性医師だけでなく男性医師も、そしてコメディカルの方々にも安心して働ける環境整備ができるのです。映画のアルマゲドンや多くのヒーローもので自己犠牲になって死んでいく男性は、かっこいいと刷り込まれています。でも、男性も犠牲的なワーカーホリックではなく、育児や家事にも少し目を向ける時代が来ていると思います。これは15年前に私が自分の子供たちが就学する前に子育ての一環を担ったのと同じように、皆さんも考え方のベクトルを少し変えてみる必要があるのかもしれません。

男女共同参画事業は女性のための運動か?

 私が考える男女共同参画とは、より多くの医師が、個々の仕事、生活の多様性を尊重しつつ、医学への取り組みを通じて男女共同で支える豊かな医療を推進することです。そこに、男も女も研修医も教授もありません。大事なのは、人材の有効な活用から社会への貢献を少しでも担おうとする人類共通の思いを実践すべきなのです。昔の村社会は必然的にそういうことをしていたはずです。
 確かに、結婚・妊娠・出産・育児のプロセスと、臨床医との共存は不可能のごとく言う先生も多いのも事実です。ですから私が専門とする腎臓領域では、単に専門医と簡単に言っても、腎炎・腎症・ネフローゼの治療から腎不全治療(血液透析・腹膜透析・腎臓移植)と活躍できる領域は非常に広い領域をカバーしなければなりません。これは、おそらくどの科に行っても同じことでしょう。更に、大学でキャリアを形成するにはどのような形でもリサーチ(研究)する心を失うこともできません。その中で、病理学はすべての医学の根幹に通ずる重要な学問であり、臨床現場を支える大きなセクションです。私のいる腎臓内科医領域で腎組織を読めない人に治療プランを立てられることは、患者の命にかかわる重要問題です。癌の悪性度を明確に理解できない、イメージできない腫瘍専門医は世の中には存在しないと思います。楽しければ続ければいいし、もし、人生のワークライフバランスを考えるなら、理解ある上司のもとでしばらく病理診断学を勉強する事も選択肢の一つになるのではないかと思います。病理をやっていて、腎臓が面白いとか、内科をやってみたいという方は、どうぞ黒瀬先生の推薦書を持って東北大学の私まで相談に来て下さい。逆に、内科や外科など臨床医をしていて女性医師のキャリア向上のために病理診断学を勉強したいと思われる方がいたら、私が責任を持って黒瀬顕を推薦しておきます。彼も私も、家事も育児もこなす働く女医を伴侶にした医師ですから、きっと何かの役に立つと思いますし、相談相手ぐらいにはなれるはずです。
 最後に、私の目指す男女共同参画では単なるフェミニスト運動やウーマンリブ運動の延長線上にあるものではありません。まして、理解ある一人の上司だけでなんとかなる問題でもないかもしれません。しかし、オーガナイザーは各人の希望するキャリアパスを明確にし、妊娠や育児をしながらでも、きちんと個人の能力を伸ばせるような環境を形成し、それが長い目で見れば社会への有能な人材の還元と信じて行動しなければなりません。個性を重んじる現代だからこそ私は、仕事においても人生においても個々の多様性を認めることが Global Standard だと信じています。
 もし仕事上のキャリアと家庭問題で悩んでいる人がいるならば、どうか一人で悩まないで、メールでもなんでもいいですから、我々にも相談してください。

清元 秀泰 ( kiyo[at]med.tohoku.ac.jp )

参考文献

「アフターマン:人類滅亡後の地球を支配する動物世界」 ドゥーガル・ディクソン著、今泉吉典訳(旺文社の初版はすでに絶版、現在はダイヤモンド社および太田出版より復刻版が出版されている)
「利己的な遺伝子」 リチャード・ドーキンス著 日高 敏隆 他、訳(科学選書)
「働かないアリに意義がある」 長谷川英裕著(メディアファクトリー新書)